『ウィザードリィ』といえば何もサムライや忍者の右翼的イメージで国賊に天誅!だけではあるまい。

大江健三郎の『死者の奢り』のような暗く・・・陰鬱で屈折した世界もまたゲームに表現されているのではないだろうか?

三島由紀夫のような憂国の英雄で国難に立ち向かうオリエンタルヒーローな世界だけではない。

芥川賞作家からノーベル賞作家に到達した大江健三郎の『死者の奢り』の世界にも通じる迷宮の暗い闇もまた見事だ。

右翼的な人だけではなくて、左翼な人もまたウィザードリィに魅力があるように思っている人も多いのではないか?

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 地下迷宮でゾンビとかロッティングコープスとかナイトストーカーのような不気味なアンテッドモンスターに遭遇すると大江健三郎の名作の『死者の奢り』と『ウィザードリィ』の世界がシンクロする。


死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡み合い、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、 また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにく い独立間を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に身をすりつけあっている。

死者の奢り


芥川賞。美辞麗句を並べ立ててあっても吐き気をもよおす文章があれば、異臭漂い、まるで汚水まみれの無残で差別的な文章に希望や美を見出すこともある。と もすれば、使い切らず鈍らせてるだろう五感を(特に嗅覚を)とことん刺戟され、蘇生感を覚えだす。

高らかに非道徳を唄う物語の非日常性、臭いものに蓋をし ないという切り口から読み手の軟弱度が計られてるような気がする。著者の勇気に敬意。

決して内部へと浸透しない他者との関係性の中に潜む表面的な摩擦。その外殻に擦れる不快感が、お互いの距離によって生じるものだと知りつつも、その距離を 埋めようとしない諦念に、日本人的性格が顕著に表れているような気がする。

鋭敏な意識や感覚が描き出す体臭や粘液や吐息の生々しさに、本能的な不快感が刺激され、普段自分が何気なく見ている世界の裏側に潜む醜さを、否応なく見せ られるような気分。

地下の死体処理室、病棟、町から隔絶された村落など、どの話も舞台が閉鎖された空間であることが共通している。しかもその閉鎖性を突破していこうでもなく、基本的に鬱屈としたまま結末を迎える暗い話ばかり。戦後のGHQ占領下にあった時代背景も関係しているのだろうか。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 大江健三郎の初期作品のグロテスク・リアリズムのような世界もまた魅力的なウィザードリィ。

 ウィザードリィは渋澤龍彦の世界とも通じてもいるが、大江健三郎の世界をファミコンにすればウィザードリィの狂王の試練場もまた一理ある!

 三島由紀夫が悪とすれば大江健三郎は善・・・

 善と悪は人によっては違う・・・

 もちろん大江健三郎を国賊と思えば悪は大江健三郎の作品であり、善は憂国に燃えるサムライと忍者で地下迷宮で暗躍する魑魅魍魎を国賊と思い天誅を!とも思ってしまう三島由紀夫の側だったりする。

 大江健三郎の名作の『死者の奢り』が芥川賞で今も濃い短編のように評価する人もいる一方で、今もファミコンの8BITのウィザードリィもまた永遠に名作というのもまたあるのか?とふと思う。

 『性的人間』で『セブンティーン』でプリーステスとかサキュバスに萌えてエロチック・・・というわけではないが大江健三郎的な楽しみももちろんウィザードリィにはあるのではなかろうか?

 三島由紀夫的な悪の魅力・・・反面、大江健三郎の善なる魅力・・・

 属性が違う善悪の彼岸・・・

 今、思うと哲学的な魅力で自称・右翼でもあったSF翻訳家の矢野徹もその辺は理解していたのではあるまいか?

 病院の死体洗いのホルマリン漬けの都市伝説・・・・ウィザードリィと大江健三郎の『死者の奢り』は良く似合う。

 最近、『ウィザードリィ』は大江健三郎の『死者の奢り』のような芥川賞の傑作とふと思ったりもして再評価したくなったのだけれどもね。